2024年から発行される新5000円札の顔となった津田梅子。ドラマでも取り上げられ、一躍話題となりました。
津田梅子は7歳でアメリカに留学し、奨学金制度や女子英学塾(現津田塾大学)を設立したりと、日本女性の地位向上のために大きく貢献した人物です。
そんな梅子だから完璧な女性だと思うでしょうが、実はそうではありません。
梅子だって不安に押しつぶされそうになったこともあるし、たくさん失敗してきたひとりの女性であり少女だったんです。
〈目次〉
書籍情報
- 題名:津田梅子ー女子教育を拓く
- 著者:髙橋裕子
- 出版:岩波書店
- 発行:2022年9月21日
津田梅子年表
1864年(0歳):誕生
1882年(18歳):日本帰国
1885年(21歳):華族女学校に就職
1889年(25歳):アメリカに再留学
1892年(28歳):日本帰国。女子のための留学奨学金設立
1900年(36歳):華族女学校を辞職。女子英学塾(現津田塾大学)設立
1919年(55歳):病気のため、女子英学塾塾長辞職
1929年(65歳):逝去
低すぎる女性の地位
生まれたのは江戸末期、亡くなったのは昭和初期。江戸、明治、大正、昭和と津田梅子は激動の時代を生きました。
当時の女性は「良妻賢母」(よき妻、よき母)として家庭を支えることが求められ、そのための教育がなされていました。
男性が個々の能力に応じた高等教育を受けられるのに対し、女性はそもそもそういった機会に恵まれていませんでした。
夫と家庭に隷属する立場としての女性は、社会に埋もれていたといってよいでしょう。
7歳でアメリカに留学し18歳で帰国した梅子にとって、日本の女性の地位の低さは信じられないものでした。
梅子はあまりの地位の低さに、カルチャーショックを受けたようです。
でもここでめげないのが梅子のすごいところ。日本の女性の地位向上のため、まずはすべての女性に高等教育をと奔走するのです。
しかし、その道のりは簡単ではありませんでした。
日本性の喪失
日本に帰国した梅子は、ひとりでは生活できなくなっていました。長いアメリカ生活で、日本語を忘れてしまっていたのです。
通訳がいないと日常生活が送れない梅子。日本語の喪失は梅子をひどく苦しめました。
当時は今と違って翻訳機だってないし、英語を全く話せない人が圧倒的大多数ですから、梅子の生活がいかに不便だったかが簡単に想像できますよね。
それに加えて梅子は、日本人としてのアイデンティティも失いかけていました。
日本人の風貌をしながら、中身はアメリカ人な梅子。この二文化性は梅子の立ち位置をあやふやなものにし、生涯梅子を悩ませたのです。
社会的風潮
帰国後日本の女性たちの地位を向上させたいと願い、そのためには女子への高等教育が欠かせないと見抜いた梅子。
そのため帰国後に華族女学校への就職が決まったとき、梅子は大きく期待します。
華族女学校は女子のための教育機関。明治の新政府主導による設立でしたから、梅子が期待するのもわかります。
でも期待とは裏腹に、そこでは「良妻賢母」を育てる教育が重視され、女子へ高等教育を提供するわけではありませんでした。
「女性に教育はいらない」「女性は夫に隷属し、子どもを産んで家庭を支ていればいい」。そこには根強い社会的風潮がありました。
梅子は大きく落胆しますが、他に職もないのでそこで働き続けることにします。しかし梅子の胸には、いつも女子への高等教育という夢がありました。
そして25歳の時、自身のキャリアアップのため、梅子は二度目のアメリカ留学を決意するのです。
女子英学塾の設立
帰国後の梅子は自信をつけ、女子のためのアメリカ留学奨学金制度を作ったり、理解ある支援者たちと女子教育機関の設立を目指して募金活動を行ったり。
日本女性の地位向上という夢の実現のため、積極的に活動します。
その努力の甲斐あって遂に設立されたのが女子英学塾。現在の津田塾大学です。
ここでは女子に高度な英語教育を提供し、それ以外にもリベラルアーツ教育(幅広い分野の知見を得て柔軟な思考を得ることを目的とした教育)の一環で様々な講義が開講されました。
教壇での梅子はとっても厳しい先生でしたが、一方で休日には塾生たちと一緒に食事をしたり、笑い合ったりと打ち解けていました。本当に塾生を愛していたのです。
女性の地位向上という大きな夢を持って、社会に自分のすべてをかけて立ち向かう梅子と強い横顔が浮かびますね。
完璧じゃない梅子
新紙幣の顔となり、日本の女子教育への貢献という偉業から、スーパーウーマンに見られがちな梅子。
でも梅子は激動の時代を生きた、ダメなところもある普通のひとりの女性だったんです。
アメリカ人のホストマザーにアメリカ人をバカにする内容の手紙を送ってしまったり、強く言いすぎて相手を怒らせてしまったり。戦争を美化したことだってあります。
結婚について悩んでいたし、友人関係にも悩んだし、誰もがそうであるように孤独感と闘いました。
それでも梅子が偉業を成し遂げられたのは、支えてくれる存在があったから。
共に留学した仲間やホストファミリー、友人や恩師。彼らの協力があってこそ、梅子は輝くことができたのです。
梅子は幸せだったか
本書を読んでいると、梅子の人生は果たして幸せだったのかと思わずにはいられません。
親のエゴで幼くして留学し、日本人にもアメリカ人にもなりきれず、異質な存在となってしまった梅子。
官費留学したのだから国の役に立たなければと焦る気持ちも、常に梅子にありました。
梅子の人生は自分ではコントロールできないところで、まさに「運命」に翻弄されたといってよいでしょう。
もし梅子が留学していなかったら、もし官費留学生でなかったのなら。梅子の苦悩は、ここまで大きくなかったかもしれません。
そう考えると、悲しい人生であるような気がします。
まとめ
新5000円札の顔となった津田梅子。
その偉業の背景にはきれい事だけでは済まされない、たくさんの苦悩や失敗がありました。
津田梅子は普通の女性であり、悩める少女でした。決してあなたから遠い、雲の上の存在ではないのです。
残念ながら現在の日本社会は、男女平等とは言い難い状況が続いています。そんな日本を見て、梅子は何を思うのでしょうか。